私たちが前代未聞の実験に挑んでいた舞台は、奥獅子吼山の山頂付近にある、大きく開けた平坦地であった。厳冬期ともなれば、日本海から吹きつける猛烈な地吹雪と、強烈な雷雲に絶え間なくさらされる過酷な最前線である。しかし、そこに無骨にそびえ立つ高さ六十メートルの寸胴型の送電鉄塔と観測小屋こそが、私たちの実験場所であった。
このロケット誘雷グループは、一枚岩でありながら、実はそれぞれが異なる体制とテーマを胸に秘めた「混成部隊」であった。グループを統括する代表はH氏であったが、実質的な現場の差配は、リーダーであるN氏と、その下で計画を担う若手のS氏の二人に任されていた。口髭を蓄え、どこかダンディな佇まいのN氏と、血気盛んなS氏。この二人の絶妙な連携が、部隊を静かに、そして力強く率いていたのである。
実際にロケットを撃ち上げて誘雷を行う主役は、大学の先生たちとその研究室の学生たちである。彼らにとってこの山頂は、雷雲の物理的メカニズムの解明や放電現象の分析という、純粋な学術の真理を追い求める巨大な実験室であった。
気まぐれで、かつ圧倒的な自然の驚異を相手にするため、彼らの体制は実に泥臭く、そして強固であった。実験期間となる十一月の約一ヶ月間、大学の先生たちが綿密なローテーションによる分担スケジュールを立て、常に誰かが山小屋に寝泊まりして張り付くという、文字通りの「籠城体制」を敷いていたのである。
一方で、企業側の技術者として参加していた私は、彼らとは全く異なる動的な動き方をしていた。
私は大学チームのように一ヶ月間ずっと山に籠るわけではない。下界の事務所において気象条件を凝視し、「雷雲が近づきそうだ」という絶好のタイミングを見計らっては、月に数回、あの忌々しくも懐かしい山道を駆け登るというピンポイントアタックのスタイルをとっていた。
当時は、現在の気象観測のように雨粒や風の動きを三次元で捉えてくれる便利な「ドップラーレーダー」などという代物は、私たちの手元には存在しなかった。
では何を頼りにしていたかというと、主に大まかな地上気圧配置、そして上空の高高度における気温の推移などである。数千メートルもの上空に強烈な寒気が流れ込み、大気の状態が極限まで不安定になる瞬間の、目に見えない大気の「胎動」を、私たちは机上のデータから必死に読み解こうとしていたのだ。それはさながら、一通の難解な古典の行間から筆者の真意を推し量るような、極めて知的で、かつスリリングな作業であった。
私に課せられていたのは、大学のような純粋な物理の真理探求ではなく、もっと生々しく実務的なミッション――「現状の電力インフラ設備を雷の猛威から守るための、リアルな雷害対策」であった。
この企業側の観測研究を、陰に陽に支えていただいたのが、T大のⅠ氏とⅮ研究所のM氏であった。Ⅰ氏は、世界的に知られる雷研究の権威であり、本来であれば若き日の私が気軽に言葉を交わすなど、畏れ多いはずの人物である。しかし当時は、その凄さを十分に理解せぬまま、実にフランクに話をさせていただいていた。今にして思えば、なんと失礼なことであったかと冷や汗が出るが、お二人とも東京にいながら、問題が生じれば現地まで駆けつけ、真摯に対応してくださった。その献身的なサポートが、どれほど心強かったか測り知れない。
日本海側を襲う冬季雷は、夏場の雷とは比較にならないほど莫大なエネルギー(電荷量)を持つことで知られている。ひとたび閃光が走れば、電力インフラに致命的な打撃を与える脅威であった。
しかし、下界で毎日そのデータを睨み、山頂で今か今かと待ち構えているうちに、私の中に不思議な感情が芽生え始めていた。それは単なる脅威ではなく、どこか奇妙な愛着のようなものへと変化していったのである。脅威ではあるが、私たちが手繰り寄せようとしているその光景は、どこか神聖で、美しくすらあった。
あの高さ六十メートルの鉄塔に稲妻が直撃したその瞬間、巨大な鉄のフレームの電位と電圧はどのように跳ね上がり、どのように地面や周囲の大地へと伝搬していくのか。
これらの過渡的なデータを正確に把握して持ち帰らなければ、送電線や変電所、ひいては街の明かりを守るための確かな設計はできない。
大学の先生や学生たちが山小屋のストーブの前で次の雷をじっと待っているのに対し、私は下界の事務所で気象状況と睨み合い、ここぞという好機を狙って山を駆け登る。目的やアプローチは違えど、狙う獲物はただ一つ、天から降り注ぐ稲妻のみ。この産学の異なる思惑と緊張感が、山小屋の空気の中で奇妙にブレンドされていることも、この実験をいっそう深いものにしていた。


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