真偽判定機

short story

エヌ氏は、画面に映し出された自分の顔を凝視していた。

「みなさん、こんにちは。私がエヌです。実は先日、会社の金を横領しましてね。いやあ、バレないと思ったのですが」

動画の中で、エヌ氏は実に見事な笑顔で恐ろしい内容を白状していた。表情の癖も、声の揺らぎも、首の傾げ方まで本人そのものだ。だが、エヌ氏にそんな身に覚えは一切ない。

悪質なディープフェイク映像だった。

「ひどい……! 一体誰がこんなものを!」

妻のケイコが悲鳴を上げた。ネット上に投稿されたその動画は瞬く間に拡散され、エヌ氏のSNSには罵詈雑言が殺到した。会社からは謹慎を命じられ、近所の人々からは白い目で見られた。

エヌ氏は必死で「これは偽物だ!」と主張したが、誰も信じてくれなかった。技術が進化しすぎたせいで、肉眼では本物とディープフェイクの区別など到底つかなくなっていたのだ。

人間が信じてくれないのなら、機械に頼るしかない。 追い詰められたエヌ氏は、高額なローンを組んで、最新型の判定機械を購入した。その名も『真偽鑑定AI・オクルス』。あらゆる動画や音声を分析し、ピクセル単位の歪みや波形の不自然さから、それが本物か人工物かを99.9%の確率で見破るという画期的な装置だった。

さっそく、横領告白動画をオクルスに読み込ませる。 緑色のランプが点滅し、合成音声が告げた。

『分析完了。この動画は、生成AIによって作成された偽物です』

「やった! 偽物だと証明されたぞ!」

エヌ氏は歓喜した。オクルスが発行した「偽物証明書」を警察と会社、そしてネット上に提出した。疑いは晴れ、エヌ氏は無事に元の生活を取り戻すことができた。

しかし、一度生まれた不信感という芽は、簡単に摘み取れるものではなかった。

数日後、エヌ氏はテレビのニュースを見ていて首をかしげた。大統領が重要な条約に調印している映像だ。 (……待てよ。この大統領の笑顔、どこか不自然じゃないか? もしかしてこれもディープフェイクでは?)

気になったエヌ氏は、ニュース映像をオクルスに読み込ませた。 『分析完了。この映像は偽物です』

「なに……!? 大統領の映像が偽物だって!?」

エヌ氏は震えた。世の中には、自分が思っている以上に偽物が溢れかえっているのではないか? 彼は街に出かけ、スマートフォンであらゆるものを撮影し、片っ端からオクルスに判定させた。

有名タレントの謝罪動画——『偽物です』 近所のカフェのPR動画——『偽物です』 警察署長の見守り呼びかけ映像——『偽物です』

世の中は偽物だらけだった。画面の向こうにあるものだけではない。ネット上で流れてくる友人たちの楽しそうな写真も、SNSの投稿も、すべてAIが作り出した幻想だったのだ。エヌ氏は誰も、何も信じられなくなった。

「ケイコ、恐ろしいことになったぞ。世界は嘘で満ちているんだ。本物なんて、僕たちの目の前にあるこの現実だけなんだ!」

怯えるエヌ氏を、妻のケイコは優しく抱きしめた。 「大丈夫ですよ、あなた。私がここにいます。私は本物でしょう?」

その温もりに、エヌ氏はホッと胸を撫でおろした。……だが、ふと疑問が頭をよぎった。

(待てよ。最近の生成AIは、立体ホログラムも、触覚フィードバックすら再現できると聞く。それに、声だって……)

「あなた、どうしたの?」

心配そうに覗き込んでくるケイコの顔。その皮膚の質感が、急に不自然なほどきめ細やかに思えてきた。

「あ、いや……なんでもないよ」

エヌ氏は震える手でスマートフォンを掲げ、目の前にいるケイコの顔を撮影した。そして、その画像をオクルスに送信した。

緑色のランプが点滅する。 ピコーン、という機械音が静かな部屋に響いた。

『分析完了』

オクルスの合成音声が、淡々と結果を告げた。

『対象の画像は、生成AIによって作成された偽物です』

「ひっ……!?」

エヌ氏は息を呑み、思わず後ずさりした。妻を見た。ケイコは変わらぬ優しい笑顔で彼を見つめている。

「どうしたの、あなた? 機械がなんて言ったの?」

「う、嘘だ……お前は……お前は本物のケイコじゃないのか!?」

「何を言っているの? 私よ、あなたの妻のケイコよ」

ケイコが手を伸ばしてくる。エヌ氏はパニックに陥り、彼女の手を振り払って部屋の隅へと逃げた。

「来るな! 偽物め! いつからすり替わった!? 本物のケイコはどこへ行ったんだ!」

「あなた、落ち着いて……!」

絶叫するエヌ氏。だが、そのときオクルスが追記するようにぽつりと音声を漏らした。

『補足します。撮影に使用されたカメラのレンズ情報、および撮影者の指の微小な震えパターンを解析……』

エヌ氏はハッとして、オクルスの画面を見た。

『撮影者である「エヌ氏」の存在自体が、高度なAIシミュレーションによって生成されたコンテンツである可能性:99.8%』

エヌ氏は固まった。

自分の手を見た。皮膚のシワ、爪の形。すべてが恐ろしいほどリアルだった。だが、頭の中に直接、無機質なエラーメッセージが浮かび上がってくるような気がした。

「あ……あ……」

妻のケイコが、哀れみのこもった目でエヌ氏を見つめていた。

「言ったでしょう、あなた。最近のAIは性能が良すぎるのよ。自分が『本物の人間だ』と思い込んでいるプログラムまで作れてしまうんだから」

エヌ氏の視界が、まるでテレビの電源を落としたときのように、サーッとノイズで埋め尽くされていった。

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