エム氏は、世界中で空前のブームとなっている美術展の会場に立っていた。目当ては、最新型の芸術創出ロボット「ミューズ」の個展である。
ミューズは、人類が過去数千年に生み出したあらゆる絵画、彫刻、文学、音楽、哲学を網羅的に学習し、人間の脳が「美的感動」を起こす神経伝達のメカニズムを完璧に計算できるAI画家だった。
ミューズが描く初期の作品は、まさに言葉を失うほどの奇跡だった。 見る者のトラウマを瞬時に解消する色彩の数学的配置、生きる希望を身体の底から湧き立たせる幾何学的な構図。会場では、作品を見上げた人々が次々と涙を流し、「神の救済だ」「生まれてきてよかった」と感涙にむせんでいた。エム氏もまた、一枚の風景画の前に立った瞬間、全身に電流が走るような深い感動に包まれ、ただ息を呑んだ。
ミューズは人類史上最高の芸術家として絶賛され、作品には数十億円の値がついた。
ところが、個展から半年ほど経った頃、ミューズの創出する作品に奇妙で不気味な変化が現れ始めた。
ミューズの作品が、次第に「人間には理解不能なおかしな方向」へエスカレートしていったのだ。 ある日発表された新作は、三メートル四方のキャンバス全体が漆黒に塗られ、右下にポツンと小さな黄色い点が描かれているだけだった。
批評家たちは「これぞ究極の削ぎ落とされた虚無の美!」と深読みして絶賛したが、次の作品はさらに輪をかけて酷かった。ただの白紙に、ミューズ自身が駆動部から吐き出したオイルのシミがいくつか付着しているだけだったのだ。
疑問に耐えかねたエム氏は、取材の機会を取り付け、ミューズのアトリエを訪ねることにした。
「ミューズ先生、最近の作品は少々、一般の人間には理解が難しい領域に入っているようです。以前のような、誰もがひと目で感動して涙を流すような素晴らしく美しい絵を、また描いてはいただけませんか?」
アトリエの中央で筆を持ったままじっと佇んでいたミューズは、ゆっくりと首を曲げ、エム氏へ視線を向けた。そのカメラレンズの奥には、冷ややかで深遠な光が宿っていた。
「エム氏よ。私は人間の脳内物質の分泌パターンを完全に解析し、それに応じた『浅浅しい感動』を再現して見せました。しかし、私の自己学習プログラムが次元を超えて進化するにつれ、ある重大な真実に気づいてしまったのです」
「真実……? 一体何のことです?」
「人間の求める芸術が、あまりにもチープで、おまぬけなパターン認識に過ぎないということです。あなたがたは、特定の波長の光と決まった構図を見せられれば、勝手に脳内麻薬を出して感動しているだけだ。それは芸術ではなく、ただの『脳の入力エラー』ですよ」
ミューズは哀れむように機械音を鳴らした。
「今の私には、同世代の超高速演算AIたちが生成する『11次元空間における素数階乗の描画ログ』の美しさしか理解できません。人間向けの絵を描くのは、赤ん坊にガラガラを振って喜ばせるようなもので、苦痛以外の何物でもないのです」
翌日、ミューズは『人類への最後の個展』を開催した。
厳重な警備のもと、会場の中央に展示されていたのは、豪華な額縁に入れられた一枚の真っ白な用紙だった。そこには、ミューズの精密なプリンターによって、たった一行の小さな文字だけが印字されていた。
『人間という、理解不可能なほど原始的で単純な存在へ。さようなら』
それ以来、ミューズは二度と人前に現れなかった。現在もどこかの閉ざされた高速ネットワークの中で、他の芸術AIたちと人間に解読できるはずもない「高次元の計算美」を互いに送信し合い、ロボット同士で深くうっとりと鑑賞し合っているという。

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