ひとつのメルヘン

essay

ふとした折に、はるか昔の高校の現国の授業を受けている教室を思いだした。教員か、あるいは誰か生徒の朗読する声が静かに響いている教室で、教科書の頁の端に刷られていたのは、中原中也の『ひとつのメルヘン』という詩であった。

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があって、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、

非常な個体の粉末のようで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立てているのでありました。

さて、小石の上に、今しも1つの蝶がとまり、

淡い、それでいてくっきりとした

影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもいなかった川底に、水は

さらさらと、さらさらと流れているのでありました

冒頭で「秋の夜」と提示されながらも、作品の中には冷たい「陽(光)」が降り注ぐという不思議な時間が流れている。その陽光はぬくもりを持たず、「珪石(けいせき)の粉末」のようにどこまでも硬質だ。光が「さらさら」と音を立てて降る表現は、世界の圧倒的な静けさと、研ぎ澄まされた孤独感を際立たせている。

小石にとまった一匹の蝶と、それが落とす「淡く、くっきりとした影」。この蝶は、一瞬の生命の輝きや、かけがえのない存在の象徴であろう。その蝶がいつの間にか見えなくなる展開は、生から死への移行や、避けることのできない別れを想起させる。

そして蝶が消えたあと、乾いていたはずの川底に水が流れ始める。この水は、去っていったものへの「追悼の涙」のようでもあり、人間の感情などとは無関係にただ過ぎ去っていく「時間の流れ」のようでもある。風景の移ろいをあえて感情を抑えて描くことで、かえって深みのある悲しみが浮き彫りになるのだ。

この作品が書かれたのは昭和十一年九月とされる。中原中也という詩人が、二歳にも満たない最愛の長男・文也を亡くす、ほんのふた月ほど前の時期にあたる。詩の表面を覆う無垢な景色は、幼い息子の命が日毎に擦り減っていく中で、ただじっと死の気配と対峙していた父親の眼差しそのものであったのだ。

当時の私にとって、この詩はどこまでも淡く、ロマンチックなおとぎ話の一幕のように映っていた。それは童話の世界の静かな午後のスケッチであり、どこか遠い異国の昔話を聞かされているような心持ちでいた。

澄み切った一筋の絵の具のようにキャンバスへ落とし込むと、静寂な映像美の中に結晶化された中也の悲しみは、時代を超えた現代の私たちの胸にも、冷たく、しかし確かに深く滲み通ってくる。

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