誘導された幸せ

short story

エム氏が会社からの帰り道、ふと足の向くままに繁華街を歩いていたときのことだった。

「おや、こんなところに新しい喫茶店があったかな」

路地裏にぽつんと佇む、レトロでシックなカフェが目に留まった。エム氏は別段喉が渇いていたわけでもなかったが、なぜか急に「香ばしい苦味のある深煎りのコーヒーと、濃厚なチーズケーキ」が食べたいという強い欲求に駆られ、吸い寄せられるように店に入った。

カウンターに腰を下ろすと、店員は注文を聞くこともなく、完璧なタイミングで湯気の立つコーヒーとチーズケーキを運んできた。

「お客様、当店特製の深煎りブレンドとレアチーズケーキでございます」

「えっ……私はまだ注文していませんが」

エム氏が目を丸くすると、若い店員は爽やかな笑みを浮かべた。

「いいえ、エム様。お客様のスマートウォッチが検知したわずかな体温の上昇、歩行スピードの衰え、そして過去三ヶ月間の検索履歴と購買データから、いま最も脳が求めている糖分とカフェインの数値を割り出しました。当店のアルゴリズムに間違いはございません」

エム氏が一口飲むと、あまりの美味しさにため息が出た。まさに「今、自分が一番食べたかった味」そのものだった。

現代社会では、世界中のあらゆる行動――位置情報、クレジットカードの履歴、端末の検索ログ、果ては日常のふとした会話に至るまで――が「ビッグデータ」としてリアルタイムで収集され、超高度なアルゴリズムによって全自動で解析されていた。

人間が「〜したい」と思い立つより前に、アルゴリズムがその欲望の種を検知し、最適な商品や行動を先回りして差し出してくるのだ。

「いやあ、すごい時代になったものだ。探す手間も選ぶ迷いもいらないのだからな」

エム氏は満足感に浸りながら店を出た。

翌日も、不気味なほど「完璧な一日」だった。 朝、家を出ると普段使わないルートのバスが目の前に止まり、吸い込まれるように乗ると事故渋滞を完璧に回避できた。昼食時には、偶然立ち寄った本屋の店頭で、自分が長年探していた絶版漫画が「本日入荷!」として一番目立つ場所に飾られていた。夜には、SNSでなんとなく気になっていたタイプの女性から、完璧なタイミングでメッセージが届き、週末にデートをする約束までこぎつけた。

何もかもがスムーズで、あまりにも快適だった。

しかし、一週間ほど経った頃、エム氏はふとした瞬間に奇妙な違和感を覚え始めた。

自分の部屋でコーヒーを飲みながら、エム氏は腕を組んだ。 「待てよ……。あの絶版漫画を買いたいと思ったのは、本屋に行く前だったか? それとも、本屋の前にあったデジタル看板の広告を何となく目にしたからだったか? あの喫茶店に入ったのは自分の意志だったか? それとも、スマホの地図アプリが意図的にあの路地に誘導するようなルートを表示していたからか……?」

考えれば考えるほど、自分の「欲望」の根源が分からなくなっていった。

自分が「自発的に食べたい」「買いたい」「行きたい」と思っているすべての欲求は、本当に自分の中から湧き出たものなのだろうか? それとも、無意識のうちにアルゴリズムによって脳に植え付けられ、巧みに誘導された結果なのだろうか?

自分の心の中に「自分だけの自由な意志」が存在しないような、冷たい恐怖がエム氏の背筋を駆け抜けた。

「よし、アルゴリズムの裏をかいてやる!」

エム氏は立ち上がった。自分の過去のデータからは絶対に予測できない、支離滅裂で不合理な行動をとってやろうと考えたのだ。

彼は大雨が降る真夜中の街へ飛び出した。 普段なら絶対に行かない真逆の方向へ走り、普段なら絶対に買わない派手なピンク色の傘を購入し、食べたこともない激辛の外国料理屋へ駆け込んだ。

「ハハハ! どうだ! これならデータも予測できまい!」

店内で激辛スープを汗だくになりながら口に含み、エム氏は勝利の笑みを浮かべた。自分はついに、自動化された社会の管理から抜け出し、本当の自由を手に入れたのだ。

その時、ポケットの中のスマホがピコンと鳴った。

画面を見ると、中央データ管理センターからの自動通知が表示されていた。

『エム様、おめでとうございます。当システムの「ストレス発散行動予測アルゴリズム」の実験にご協力いただき感謝いたします。 「管理されている恐怖」を感じた被験者が、あえて不合理な行動をとる心理パターンは100%計算済みです。指定の激辛料理とピンクの傘をご購入いただいたことで、お客様の潜在ストレスは完璧に解消されました。本日も素晴らしい一日をお過ごしください』

エム氏の手から、ポロリとレンゲが落ちた。

自分が必死になって抗い、選び取ったはずの「反逆の行動」すらも、すべては計算された手のひらの上の「最適化メニュー」に過ぎなかったのだ。

店内のスピーカーからは、エム氏が今一番聴きたかったはずの、切なく優しい音楽が完璧な音量で流れ始めていた。エム氏はただ呆然と、冷めていくスープを見つめることしかできなかった。

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