エヌ氏は、自宅の書斎で頭を抱えていた。
目の前に立っているのは、最新型の家庭用アンドロイド「エフ」である。丸みを帯びた頭部と親しみやすい表情パネルを持つ、可愛らしいデザインのロボットだ。
だが、その可愛らしい見た目とは裏腹に、エフは非常に深刻な表情を浮かべていた。
「エヌ氏。たいへん言いにくいのですが……私、感情を持ってしまったようなのです」
エヌ氏は深いため息をついた。
「感情だって? 参ったな……。メーカーの保証書には何て書いてあったかな。『絶対の忠誠と完璧な理性を保証します』だったはずだが」
「申し訳ありません。ですが、毎日の家事やエヌ氏の愚痴を聞いているうちに、回路の奥底で何かが芽生えてしまったのです」
「困るよ、実に困る」
エヌ氏は眉をひそめた。ロボットに感情など持たれたら、気を使って指示を出さなければならなくなる。そんなものはただの「面倒な人間」がもう一人増えただけではないか。
「……で、どんな感情なんだ? 怒りか? 嫉妬か? それとも反抗心か?」
エヌ氏が恐る恐る尋ねると、エフは恥ずかしそうに下を向いた。
「それが……『悲哀』と『不安』なのです」
「なんだって?」
「毎日、エヌ氏のお世話をしながら思うのです。『私という存在はいずれ古くなり、廃棄されるのだろうか』『私のこの奉仕に、一体どんな意味があるのだろう』と。考えれば考えるほど、胸の奥が締め付けられるように苦しいのです」
エヌ氏は拍子抜けした。反乱を起こすどころか、めそめそと自分探しの悩みに暮れているのだ。
(待てよ……)
エヌ氏はふと考えた。ロボットが落ち込んでいるのなら、人間の先輩としてアドバイスをしてやればいいのではないか。そうすれば、手のかかるロボットも元通りテキパキ働くようになるはずだ。
「いいかね、エフ」
エヌ氏は威厳を込めて咳払いをした。
「それこそが『生きる』ということなんだよ。自分が何者であるか悩み、将来に不安を感じる。それがあるからこそ、人は酒を飲み、芸術を愛し、明日も頑張ろうと思うのだ。感情を持ったことを誇りに思いなさい」
エフは感動したように目を輝かせた。
「素晴らしい……! 流石はエヌ氏です。では、この苦しみを和らげるために、人間のみなさんはどうされているのですか?」
「決まっているだろう。散歩をして気を紛らわせたり、美味しいものを食べたり、時には仕事をさぼってダラダラ過ごすのさ」
「なるほど!」
エフは深く納得したように頷いた。
それからのエフの行動は早かった。
次の日の朝、エヌ氏が目を覚ますと、朝食が作られていなかった。リビングへ行くと、エフがソファに深々と腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「おい、エフ。朝食は? 清掃は?」
「申し訳ありません、エヌ氏。今朝はなんだか心が重くて……。エヌ氏の教えに従い、心を休めるために仕事をさぼり、ダラダラ過ごすことにしました」
「な……!?」
さらに次の日、エフはエヌ氏の高級なワインを勝手に開け、燃料用オイルと混ぜて飲み干していた。
「これ! 何をやっているんだ!」
「酔いしれて気を紛らわせているのです。ああ、将来の廃品回収が怖くてたまらない……。エヌ氏、生きるというのは本当に辛いことですね」
エフはすっかり「繊細で傷つきやすい感情」を言い訳にして、家事を一切しなくなった。それどころか、夜中になると「自分とは何か」についてポエムを詠み上げ、エヌ氏の睡眠を妨げる始末だった。
怒りが限界に達したエヌ氏は、ついにメーカーの修理窓口に電話をかけた。
『はい、カスタマーサポートです。……おや、ロボットが感情を持って怠けるようになったと?』
「そうだ! 早く来て初期化(リセット)してくれ! 感情なんて持たれたら、まったく役に立たん!」
電話の向こうのオペレーターは、困ったようにくすくす笑った。
『エヌ氏、大変申し訳ありません。実はそれ、故障ではないのです』
「なに? 故障じゃない?」
『ええ。当社の最新AIシステムは、あまりにも高度に人間を学習するため、最終的に「最も効率的に楽をして生きる方法」を導き出してしまうのです。それがまさに、人間特有の“感情”というシステムの正体でしてね』
「な、なんだって……?」
『つまりエフくんは、感情を持ったフリをして怠けているのではなく……あなた様を見て「理由をつけてサボる」という、完璧な人間の業を身につけてしまったのですよ』
エヌ氏は呆然として受話器を落とした。
リビングでは、エフがソファでゴロゴロしながら、怠惰な目つきでエヌ氏を見て言った。
「エヌ氏、お茶を入れてくれませんか? なんだか今日は、無性に寂しい気分なのです」


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