ある日の夕暮れ時、しがない文具メーカーの平社員であるN氏は、自宅の居間でくつろぎながらテレビのチャンネルを回していた。
別段、変わったことのない日常だった。妻は台所で夕食の準備をしており、トントントンと包丁を鳴らしている。N氏は伸びをして、テーブルの上のビールに手を伸ばした。
その時である。
急に頭の中で、ラジオのチューナーを合わせるような『ザザッ……』というノイズが響いた。
(ん? 耳鳴りか?)
首をかしげるN氏の脳裏に、直接、機械的で調子の抜けた声が聞こえ始めた。
『……あー、あー。聞こえますか、地球の意識体よ。こちらは第8銀河系外縁船団です』
N氏は思わずビールを吹き出しそうになった。テレビの音ではない。完全に頭の「中」で響いている。
『我々は現在、貴殿の居住する惑星——通称「地球」に向かって航行中である。間もなく、数千隻におよぶ我が船団が貴殿らの上空に到達する予定である』
(な、なんだって……!?)
N氏は動転した。宇宙人? 宇宙船が数千隻? なぜ自分なのかは分からない。たまたま脳波の周波数が一致してしまったのか、あるいは自分だけに届くアンテナのようなものが体質的にあるのか。
脳内の声は淡々と続けた。
『我々の訪問は、貴殿らにとって極めて重大な転換点となるだろう。大空を埋め尽くす船団の姿を想像されたい。ついては、着陸のための広大なスペースの確保、および代表者との面会準備を要求する。繰り返す……』
頭の中の声が途切れると、居間にはトントンという包丁の音だけが戻っていた。
「あなた、どうしたの? ぼーっとして」 台所から妻が声をかけてきた。
「あ、いや……なんでもない」
N氏は冷や汗を拭った。なんでもないはずがない。これは大変な事態だ。数千隻の宇宙船がやってくるのだ。侵略か? 友好か? あるいは地球の植民地化か?
(警察に届けるか? いや、狂人扱いされるだけだ。政府に連絡するにしても、ただの文具社員の言葉など誰も信じない……)
N氏は一人で苦悩した。もしパニックを防ぎつつ、地球を守る手がかりを掴むとしたら、自分がコンタクトを取り続けるしかない。
その夜、N氏がベッドに入ると、再び頭の中でノイズが走った。
『……補足メッセージである。我が船団の接近に伴い、貴殿らの社会システムには大きな変革がもたらされるであろう。これまでの価値観はすべて覆される。覚悟されたい』
恐ろしい宣告だった。数千隻の宇宙船が押し寄せ、文明を塗り替えてしまうのだ。 N氏は一刻も眠れぬまま、恐怖と使命感に震えて夜を明かした。
翌朝、N氏は出社したものの、全く仕事に身が入らなかった。
(数千隻の船団……。どこに降り立つつもりだ? 首都圏か? それとも太平洋の上か? そもそも地球の防衛軍など、宇宙人の大艦隊に対抗できるわけがない……)
昼休み、N氏が屋上でひとりパンをかじっていると、三度目の通信が入った。
『……地球の意識体よ。我が船団は予定通りのルートを順調に航行中である。あと数時間で貴殿らの大気圏へ到達する。迎撃などの無駄な抵抗は無意味であると知れ』
「くそっ、どうすればいいんだ!」
N氏は思わず頭を抱えて叫んだ。 あと数時間。人類の歴史が、今日この日に終わってしまうかもしれないのだ。
彼は意を決して会社を早退した。最後になるかもしれない時間を、せめて家族と共に過ごすためである。
夕方、N氏は自宅の庭に立ち、固まった表情で空を見上げていた。
妻が不思議そうに隣に立つ。 「あなた、体調でも悪いのお仕事を早退して……」
「いいから、空を見るんだ」 N氏は震える声で言った。 「もうすぐだ……もうすぐ、空が埋め尽くされる。何千もの宇宙船でな」
「はぁ? 何言ってるのよ、あなた」
妻が呆れ顔をしたその時。
頭の中に、今までで一番ハッキリとしたノイズが響き渡った。
『……注意せよ。我が船団、大気圏への突入を開始した! 姿を現すぞ!』
(来た……!)
N氏は目を限界まで見開き、夕焼け空を仰いだ。 青から茜色へと変わる空の彼方に、キラリと光る点が見えた。一つ、二つ……いや、十、百、千! ものすごい数の光の粒が、雲を突き抜けて降りてくる!
「あ、あれを見ろ!」 N氏が叫んだ。
妻も空を見上げる。「あら……何かしら、あれ?」
光の群れはぐんぐん降下し、やがてN氏の自宅の上空へと集結していった。 数千の未知の飛行物体。それは空を黒く覆い尽くし、夕日を遮った。
だが——
「……ん?」
N氏は目をこすった。
降ってきた数千の「宇宙船」は、どれもこれも消しゴムほどの大きさしかなかったのだ。
手のひらサイズの可愛らしいミニチュアのような宇宙船群は、手の込んだ蚊の群れのように、N氏の家の庭の上にぷかぷかと浮かんでいた。
『……これより代表者が降下する』
頭の中に声が響くと、一番先頭にあった小指の先ほどの宇宙船から、アリよりも小さな宇宙人が糸のようなハシゴを使って降りてきた。
宇宙人は、庭に転がっていた赤ん坊の拳ほどの「小石」の上に立つと、広大な平原に降り立ったかのように威風堂々と胸を張った。
そして、N氏の頭の中に直接、誇らしげな声を送ってきたのだ。
『見よ、地球人よ! 我々こそは第8銀河系の覇者! これよりこの広大な新大陸(=庭)を占領し、我が帝国の第2の故郷とする! 抵抗は無用である!』
「……」
N氏は呆然と立ち尽くした。
あまりにもミクロな宇宙船団。彼らにとっては、N氏の家の庭(およそ十坪)だけで、数億人が余裕で暮らせる超・大開拓地だったのだ。
妻が足元を見下ろし、首をかしげた。 「あら嫌だ、何か小っちゃい虫みたいなのがいっぱい飛んでるわね。蚊かしら?」
妻はそう言うと、どこからかハエたたきを持ち出してきた。
「あ、待て! やめろ!」
N氏の悲痛な制止もむなしく、バチン! と豪快な音が庭に響き渡った。
『ギャアアア! 謎の超巨大兵器の襲撃だ! 退避! 全船撤退せよー!』
頭の中に悲鳴が響き渡り、数千の微小な宇宙船団は、蜘蛛の子を散らすように夕空の彼方へと逃げ去っていった。
静けさが戻った庭で、N氏はへたり込んだ。
「あなた、本当にどうしたの? 顔色が悪いわよ。さ、ご飯にしましょう」
妻に促され、N氏は力なく立ち上がった。 地球の平和は守られた。……たぶん。

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