エヌ氏は、最近すっかり機嫌が良かった。
街の小さな画廊の隅で、彼は自慢げに一枚の絵を眺めていた。絵画のコンクールでみごと金賞に輝いた作品だ。緻密なタッチ、息をのむような色彩の美しさ、そして見る者の心をゆさぶる深いストーリー性。批評家たちは「若き天才の誕生だ」「魂の叫びが聞こえる」と絶賛した。
「やあ、エヌ氏。おめでとう」
知人のエフ氏が声をかけてきた。
「ありがとう、エフ氏。いやあ、自分でもまさかここまでのものが描けるとは思わなかったよ」 「本当に素晴らしい。……ところでエヌ氏、君は絵の勉強なんてしていなかったろう? どうやってこれを?」
エヌ氏はフッと鼻で笑い、胸ポケットから小さな端末を取り出した。
「これだよ。最近出た新型のAIだ。誰でも簡単に使いこなせる。私はただ『見る者を感動させる、運命に抗う人間の悲哀を描いてくれ』と一言打ち込んだだけさ」
「なに、AIだって? それじゃあ、君が描いたわけじゃないじゃないか」
エヌ氏は首を振った。
「甘いな、エフ氏。今のAIは高度すぎて、適当な指示(プロンプト)では最高の答えを出さない。AIの機嫌をとり、微妙なニュアンスを調整し、指示を何度も修正する……これこそが現代の『芸術的センス』なんだよ。私はAIという道具を完璧に使いこなす天才なのだよ」
エヌ氏の言っていることは、ある意味で正しかった。AIが普及しきった世界では、ゼロから技術を磨く者よりも、AIに的確な指示を出して望むものを出力させる「指示の達人」こそが重宝されていたのだ。
エヌ氏はその後も、AIを使って小説を書けば文学賞を総なめにし、AIで作曲すればヒットチャートの首位を独占した。彼は一躍、時代の寵児となった。人々は彼を「万能の創造主」と呼んだ。
ある日、エヌ氏のもとに、一人の男が訪ねてきた。うだつの上がらない顔をした、冴えない男だった。
「エヌ氏、お願いです。私にAIの正しい使い方のコツを教えてください。私もあなたのように、人々を魅了する素晴らしい作品を作りたいのです」
エヌ氏は優越感に浸りながら、男に言った。
「いいかね。AIの本質は『人間の欲望』をいかに正確に言語化するかだ。君にはまだ、その情熱や欲望の深さが足りないのだよ。努力したまえ」
男はがっかりして立ち去った。エヌ氏は満足そうに紅茶をすすり、「やはり凡人にはこの繊細なコツは分からんのだ」と一人ごちた。
月日が流れた。
AIはさらに進化を重ねた。もはや文章を入力する必要すらなくなった。人間の脳波を読み取り、その人が「作ってほしい」と頭の中でぼんやり思い浮かべただけで、瞬時に完璧な絵や音楽、小説を生成するようになったのだ。
指示の技術も、プロンプトのコツも、何も要らなくなった。幼児でも、ベッドから起き上がれない老人でも、誰もが思い浮かべるだけで「歴史的名作」を生み出せる時代がやってきた。
街には天才画家があふれ、街角の誰もが世界最高峰の音楽家になった。空を見上げれば、誰もが思い描いた素晴らしい花火や立体映像が夜空を彩っている。
だが、エヌ氏は部屋で頭を抱えていた。
「困った……実に困ったことになった……」
彼の生み出す作品は、もはや誰も見向きもしなくなっていた。誰でも頭の中で同じレベルのものが作れるのだから、わざわざ他人の作品を鑑賞する必要がないのだ。
エヌ氏は必死で頭を働かせた。 (何か……誰も思いつかないような、圧倒的な作品を考えなければ。誰もがひれ伏すような、凄まじいアイデアを……!)
しかし、どれほど脳に汗をかいても、浮かんでくるのは「素晴らしい絵」「面白い話」といった、使い古されたイメージばかりだった。
その時、テレビのニュースが流れた。 かつてエヌ氏のもとに教えを請いに来た、あの冴えない男が画面に映っていた。男は世界中の人々から熱狂的な称賛を浴びていた。
男が生み出した作品は、これまでに誰も見たことがないものだった。 それは、凄惨で、悲惨で、人間のドロドロとした嫉妬と絶望に満ちあふれ、それでいて痛烈な可笑しみを誘う、恐ろしいほどに生々しい「人間ドラマ」だった。人々は「これこそ本物の芸術だ!」と涙を流して狂喜していた。
アナウンサーが男にインタビューしていた。
「素晴らしい作品です! 一体どうやって、これほどまでに人間の深淵を描いた作品を脳波AIに思い浮かべることができたのですか?」
画面の中の男は、照れくさそうに頭をかきながら答えた。
「いやあ、大したことじゃないんです。私はずっと、何をやってもダメな冴えない人間でしてね。世の中や、自分より才能のある人々に対して、強烈なコンプレックスと嫉妬、そしてドロドロした怨念を長年抱え込んで生きてきたんです。AIが私の脳の中を覗いたとき、その汚くてドロドロした感情が、そのまま最高の作品として出力されただけなんですよ」
それを聞いたエヌ氏は、呆然と立ち尽くした。
何不自由なく成功し、満ち足ち、プライドだけが高くなった今の自分の脳内には、AIを感動させるような「ドロドロとした強烈な業(ごう)」など、もう一滴も残っていなかったのだから。
エヌ氏は静かに部屋の隅へ歩み寄り、壁に向かってうずくまった。そして、心の底から湧き上がる激しい嫉妬と絶望に身をよじらせた。
(……待てよ?)
エヌ氏はハッと気づき、慌てて頭に脳波受信機をセットした。
「そうだ、今のこの、惨めでたまらない私の気持ちをAIに……!」
しかし、AIから返ってきたのは、身も蓋もない無機質な機械音声だった。
『申し訳ありません。その感情のパターンは、現在、全世界で最もポピュラーなトレンドとして大量生成されています』


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